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下村式国語教室2
「わかってる先生の漢字講義」

下村 昇・著/ 論創社・刊



エピローグ

 十二日間にわたるわかってる先生の講義は終わった。いつもは、みんなで「ありがとうございました」と頭を下げて帰るのに、この日に限って三人は帰らない。そればかりか、見ている間にみんなの机を寄せ始めた。そうしながら、藤原さんが、わかってる先生にいった。
「先生、ほんとに十二日間もありがとうございました。これから少しの時間、みんなで先生を囲んで、この講座のお礼をかねてお茶の時間にしたいんです。いいでしょう」
 そういいながら、既に勝手に机を動かしているのだから、いいも悪いもない……
「お茶は結構ですが、どうしたんですか?」
 藤原さんと先生が話している間に、柴田さんは、今寄せてセッティングした机に、家から持ってきたテーブルクロスをかけた。秋間さんは、講義の前にバケツに入れておいた花をキッチンから持ってきた。そして、家で作って持ってきたコーヒーの空き缶に色画用紙を巻いた数個の即席花挿しにその花をさして、テーブルのあちらこちらにぽんぽんぽんと置いていった。わかってる先生が「どうしたんですか」も「こうしたんですか」もいう暇もないほど、あっという間のセッティングだった。
「先生、ここから後は、わたくしに仕切らせてくださいましね」
 藤原さんはそういって、わかってる先生の肩を押してテーブルの真ん中に座らせた。そうしてみんなして持ちよった、バッグやら風呂敷包みやらを開け始めた。なんと、出てきたものは、ポット、コーヒーぢゃわん、受皿から小皿、スプーンにフォーク、湯飲みぢゃわん、更には、家から焼いてきたと思われるケーキ、オードブルから空揚げ、おすし、しょうゆ注しまでも……いやいや、驚くばかりのごちそうが瞬く間に即席テーブルに並べられた。さすが主婦だけあって手際がよい。わかってる先生は目を丸くしていた。柴田さんはお茶をつぎはじめた。
 みんなが席に着くと、藤原さんが手をたたき始めた。それを合図に柴田さんも秋間さんも、わかってる先生までもが拍手した。藤原さんはその拍手をさえぎるように「えー」といった。
「えー、わかってる先生には、わたくしのわがままから出た話ではありましたが、お忙しい時間を割いてくださって、しかも十二回にもわたって、有意義なお講義をありがとうございました。わたくしばかりでなく、秋間さんも柴田さんも、大変感激しています。お二人も感想などあるそうですから、後からお話しいただきます。
 それはそれとして、これは、わたしたち三人のささやかな感謝のしるしです。どうか、わたくしたちのお礼の気持ちを受け取ってください」
 こういって、藤原さんは、わかってる先生に小さな包みを差し出した。いつもに似合わず、ていねいなあいさつだった。柴田さんも秋間さんもパチパチパチと拍手をした。
「やあ、そんなお気遣いまでいただいて……ありがとうございます。せっかくのみなさんのお気持ちですから、遠慮なくちょうだいします。今日は来たときから何か変だなあとは思っていましたが、こんなこととは知りませんでした。つたない講義でしたし、どの程度お役に立てたかわかりませんが、みなさんが毎回だれひとり休みもなく出席してくださっただけでも、わたくしには感激ですよ。それなのに、今日はこんな計画までして、みなさんが準備してくださったなんて……喜んでいただけたのかと思って、ほっとしています。
 プレゼントをくださった上に、このテーブル……。こんなお花に、こんなすばらしいごちそうですよ。ほんとに感謝感激です。ありがとうございます」
 わかってる先生は立ち上がって頭を下げた。照れくさそうな、そして、ほんとによかったというような笑顔だった。みんなはまたパチパチパチと手をたたいた。ひときわ高い拍手だった。わかってる先生は、うれしそうな顔をしながら腰を下ろした。
 藤原さんのすすめで、わかってる先生はお茶に手を伸ばした。藤原さんはいった。
「わたくしね、あまり勉強、得意でないし、まして漢字なんか、書くのが面倒な記号ぐらいにしか思っていなかったのね。でも、今度いろいろお話聞いて、漢字というものに愛さえ感じちゃったの。フフフ……
 わたくし、十二回にわたって教えていただいても、よくわかったとも、ましてや身についたともいえないんだけれど、少し勉強してみたいって気になったの。勉強するスタートラインについたって感じなんです。それでね、ハッと気がついたんです。<あっ、子供がそういう気持ちになることが一番いいことなんだ>って。そういう気持ちを持たせてやれれば、自分で走り出すようになるんだと思うんです」
柴田さんも、待ちきれないという様子で、口を開いた。
「そう、わたしも漢字があんなに興味のあるものとは思いませんでした。漢字の世界の扉を開いていただいたような気分です。とても好きになりました。いや、嫌いじゃないくらいにいっておこうかしら。<お母さんなんか、子供のときよく勉強したから、こんな漢字、みんな書けるよ。お前も四の五の理屈をいってないで十行ずつでも一ページずつでも練習して、テストで百点取りなさいよ>なんて、子供を突き放すようなことはしないで、一緒に考えてみよう、一緒に勉強してみようって思いました」
 調子のよい二人に比べ、秋間さんはゆっくり考えながらの発言だった。
「わたしはね、本当のこというと、わかってる先生のお話を聞くたびに考え込んでしまっていたんです。こんなに奥深い漢字だけれど、子供たちは、とにかくたくさんのことを次から次へと勉強しなくてはならないでしょう。
 国語だって、漢字だけじゃありませんし……読みとりだって、作文だってあるし、それに、学校の勉強は算数もあるし、宿題も毎日だし、そりゃあ、すいすいなんでもこなしていける子は幸せですよ。でも、多くの子供は一〇〇%なんてなかなかできませんよね。
 で、漢字の勉強に限っていえば、毎日毎日、テスト百点を目標に、むちでたたくように教え込んでいくなんていうのは、それは子供がかわいそうじゃないかと思ってしまうの。そう思いません?
 先生は十二回のお話の中で、ドリルってことは、一回もおっしゃらなかったですよね。ドリルはいらないともおっしゃらなかったけれど……わたしが心に残ったことは、その前に大切なことがあるということでした。親子での話合いや、話題のこと、読書のこと、そして漢字の見方・考え方、それらがとても重要で大事な土台だっていうふうにわたしは聞いたんです。
 でも、やっぱり、じゃあ、具体的にどう勉強させたらいいのかとなると、悲しいかな、わたしには手も足も出ないなあと思いはじめていました。そしたら、「口唱法」っていうのが出てきたでしょう。土台もしっかり築かなければいけないこともわかるけれど、わたしにとっては、これはとてもありがたかったです。あの日、すぐにやってみたんです。子供が喜んでついてきたので本当にうれしかったです」
 三人のママさんたちは、案外しっかりしているなあと、わかってる先生は驚いた。藤原さんがすぐに秋間さんの後を受けていった。
「漢字が好きになって、勉強しようという気にさせるにはいろいろな方法があるということがお話によってわかったけれど、実をいうと、わたしにとっても口唱法が一番すぐに実行できるっていう意味では役に立ちます。すぐに結果が表れるんですもの、ありがたいですよ」
「漢字の国の門は狭き門ならずということですねえ。漢字は日本人なら一生使うものですよね。でも、小学校時代にすべての漢字を覚えなければならないというものでもないし、実際問題として、覚えられもしませんよ。文字は使いながら覚えていくものじゃありませんか。」
 こうわかってる先生がいうと、秋間さんがいった。
「そうなんですね。それがわかったら気持ちが楽になりました」
「焦らないで、無理をしないで、でも、無駄をしないで、豊かな成果を期待しながら勉強させるってことですね」
「門は狭くないけれど、道は遠くまで続くんですものね」
「でも、もっと早くに先生のお講義を受けることができたらよかったのにって、とっても残念よ」
「ほらほら、ほら……これからが第一歩じゃありませんか。一歩一歩踏みしめて歩んでください。ときには道草をして、漢字で遊ぶのも、また楽しいですよ。それに、わたしだって、どこへも行くわけじゃありませんし。いつでもあなた方のお力になりますよ」
「わーうれしい、先生、今後ともよろしくお願いしま〜す」
 それにあわせて、ほかの二人もわかってる先生にぺこりとお辞儀をした。
「あらあら、お茶もさめちゃったし、テーブルの上のものに手もつけないで、お話に夢中になってしまったわねえ。さあさあ、遠慮なくいただきましょうよ」
 藤原さんが明るくいっったおかげで、みんなはくつろいだ気分になった。
これから、どんなおしゃべりが続くことでしょう。
            終わり 


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