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先日、ブエノスアイレスの国立大学の先生がお見えになりました。大学院生及び大学生に日本文学を教えて十数年になるということでしたが、今般、日本での研修学会に参加されたのだそうです。そうして、浦和の日本語研修センターから紹介されたということで、研修会の合間を割いて、わたしどもの研究所を訪ねてくれたのでした。
その先生は、日本文学を専攻している大学院生には、最低一〇〇〇字の学習漢字くらいは覚えてもらいたいと思っているといっていました。この数字は我が国における小学校の学年別漢字配当表に示されている漢字の数とほぼ同じです。しかし、漢字の指導は外国人ばかりでなく、現地で生活する日本人の子弟でも大変難しいものだと、自らの悩みを交えて話してくれました。
ことに、外国人の場合は、じっと目で見て、字の形を覚える傾向があるというのです。その結果、例えば、「明」という字を書かせると、偏と旁を逆に書いてしまうというのです。ことに漢字の指導では、「字源」も時に応じて取り入れ、教えるのだそうです。「明」をどう教えたのか聞きますと、「月」も「日」も、どちらも地球を照らす天体だ、その「月」と「日」が同時に出れば明るい……というような教え方をするということでした。
日本の小学校でも、よくこうした説明をする先生がいるという話を聞きますが、わたしは、あまりこの説明はよくないと思うのです。この説明では、偏と旁のどちらがわに「月」があり、どちらがわに「日」があってもよいような感じがします。「日」と「月」とが、並んでさえいれば「あかるい」ことになります。
「明」という字の「字源」を応用して、字形の定着を計るための指導法を考えるとするならば、「明」は「窓」と「月」の形だと教えるのがよいと思います。漢字のできた古代、それはおそらく現代のような電気などない、いわば、明かりのない時代です。窓から差し込む月の明かり、これくらい、灯火のない古代人にとってうれしいものはなかったにちがいありません。「日」は「窓」の形であり、その窓から今上ってきた「月」の光が室内に差し込んできた、だから「明るい」。これなら文学的でもあり、古代に思いを馳せながら「明」の字形を意識します。「明」は「窓から差し込む月あかり」ですから、その月の形から左右を取り違えて書く学生はいなくなります。さらに、字源からいっても、これが正しい「明」の解釈なのです。
同じように、書き取りで、「天」はどう書くでしょうか。新字体では「天」の横棒は、上が長いか下が長いかというところが問題になります。昔の字体(本字・旧字)は、上が短く、下が長い形でした。しかし、常用漢字では、上が長く、下が短い形になっています。この字形を、きちんと、一度の授業で意識させるには、わたしが「成り立ち」とよんでいる説明を活用するのがよいと思います。
「天」は「一」と「大」の組み合わせだと教えます。その際、「一」は「人の頭の上に広がる空」を表し、「大」は「両手両足を広げて立つ人」だと説明します。すなわち、『「天」は、両手・両足を広げて立っている人の、頭上高く広がっているものであり、それが「天」だと教えるのです。空を表す「一」が、人の手より短くてはおかしいでしょう。だから、「空」を表す「一」は、人の手より長く書きましょう』と説明するのです。
この説明は、現在の常用漢字の字形に従った見方、考え方ですから、いわゆる漢字学的「字源」といわれているものとは異なります。しかし、現在の常用漢字、ことに教科書体の字形に従えば、こうした説明が最も有効だといえます。この教え方をすると、小学一年生でも、上が長く下が短い「天」という字形をはっきりと意識し、書き取りテストでバツになる子は激減します。
それでは、いわゆる「字源」といわれているものの「天」という漢字の説明はどうなっているのでしょうか。二・三の例を挙げてみましょう。
・「『大』は人の正面形、その上に頭部を示す円を加えた形」(『字統』白川静・平凡社)
・「人の最も上にある大きな頭を示す」(『角川漢和中辞典』貝塚茂樹他・角川書店)
・「人の身体を正面から見て、特にその頭部をはっきりと書いて、頭の意味を表した象形 字」(『漢字の語源』山田勝美・角川書店)
こうして、何冊かの漢字学者の書かれた字源といわれる説明を読んでみても、その「字源」通りの説明では、現在の「天」という字の字形のイメージは出てきません。それは字源というもの、それ自体が、その漢字の持つ意味につながるものであり、字形につながるものではないからです。
それなのに、なぜ、こうした、いわゆる「字源」と異なる説明をするのでしょうか。それは、現在、私たちが読み書きしている常用漢字の字体が、「字源」で解釈されている漢字の字体と異なるものが多いからです。言い換えると、「漢字」というものの「体」が、現在わが国で常用している漢字とかなり違っているからです。例えば、現在の「学校」の「ガク」は「学」ですが、本来の漢字は「學」ですし、「数学」の「数」は「數」が本字(旧字体)です。そして、鏡台、台帳、車の台数、気象台などと書くときの「ダイ」の現在の常用漢字の字体は「台」ですが、字源の「ダイ」は「臺」でなされています。この本字というか、旧字体での字形の解釈が、いわゆる「字源」というものなのです。
しかし、こうした字源といわれるものは、面倒なことに、先の「天」の例でわかるように、一様でないものが多いのです。「字源」は、いわば、それぞれの研究者の研究の成果ですから、どれも同じというわけにいかないのは、当然といえば当然なのです。
卑近な例として、もう一つ、だれもが知っている、「突然」の「突」という字を取り上げてみましょう。
【突】……「穴」と「犬」からでき、「穴の中から急に犬が飛び出す様」を表したもの。
これが、『新版漢字源』(藤堂明保他・学研)や『角川漢和辞典』(前出)による字源の説明です。
【突】……「竈の煙抜きのあるところで、突出するところ」のこと。
これが、『字統』(白川静・平凡社)による字源の説明で、「犬が穴の中からにわかに飛び出るというのは間違いだ」と書いてあります。
これは例として挙げたものですから、わかりやすくして説明しておきましたが、辞書などは、なぜそうなのか、何の意味なのかさえ分からないというものが多くあります。こうなると、一般読者にとっては、どれが正しく、どれは間違いなのか、その判断はつけにくいということになります。ですから、一冊だけを読んで得た知識によって、「この本は、でたらめだ、間違いだ」とはいえません。
問題はそればかりではありません。現在の我々が常用漢字の字体によって読んだり書いたりする「トツ」という字を、もう一度よく見てみましょう。「トツ」は「穴」と「犬」どころか、「穴」と「大」との組み合わせになっています。小学生が漢字の書き取りテストで「穴」の下に「犬」と書いたらバツになるでしょう。本稿はワープロで打っていますが、今、「穴」に「犬」をつけた、前記の字源による、旧字体の「トツ」をここに表記しようとしても出せません。この字体はJISの16進コードにもないからです。そうした漢字の字源が何であるかを、漢字学者でもない一般のわたしたちが、詮索する必要があるでしょうか。そしてまた、このような字形になっている「突」や「学」「数」「台」などを、「穴」と「犬」のように旧漢字に戻す必要があるでしょうか。さらには、「學」や「數」「臺」の字源を説明して、「突」という字は、本当は「穴」と「犬」なんだよ、などということが、どれほど有益でしょうか。
字源の解釈を読むのは、なかなか骨が折れます。というより、読んでもわからないことが多いと思います。ですから、ここではなるべく、「なるほど、漢字は、こうみていけばいいのか」ということがわかるような、日常に役立つ漢字の見方、考え方を具体的に述べようと思います。
ことに日本語表記の手段として、漢字を学習する諸君にとっては、字源の詮索よりも、見た通りの字形として、認識する方が賢明なのではないでしょうか。
「突」ならば「穴」と「大」の組み合わせとし、「数」ならば「米」と「女」と「攵」の組み合わせとする。そして、「台」ならば、漢字「臺」の字源を説明するのでなく、「ム」と「ロ」の組み合わせとしての「台」を意識づけていくのです。こうした考え方にたって、それぞれの字の意味と字形を鮮明に意識し、納得し、理解するするような意識づけをすることの方が大事だと思うのですが、いかがでしょうか……
そうした考えが、本書の基本的な考え方です。ですから、おこがましく「字源」といわず、「成り立ち」という言い方で、現在の漢字のメルヘンとして位置づけようとしているわけです。この考え方は、これからの漢字学習には必ず役立つことだと信じています。
本書によって、漢字をユーモアのある古代人の知恵の産物として楽しんでみてください。そしてまた、文字が表音化しつつある世界文化の流れの中で、世界に数少ない優れた表意文字・漢字の恩恵を受けて育ってきたわたしたちです。本書をきっかけに、わが国独自の漢字として確立された、漢字仮名交じり文の表記法をもう一度考えてみるのも意義のあることではないかと思います。