<

いろいろな要素が絡み合って複雑な社会に生きる私たち。
イライラ、あせり、欲求不満、自己嫌悪…。自信喪失におちいることも少なくありません。
そんなときこの本を開いてください、兼好法師の生きる知恵50が現代によみがえリました。
楽しく、深く、広く人生を楽しむ人生の知恵の宝庫です。
<以下は未出版原稿からの抜粋です/出版社募集中>

勝負の極意とは…

勝負の極意/一番早く負ける手を避けよ


テレビやコミックで人気だった「ひかるの碁」。あの囲碁の格言のひとつに「取ろう・取ろうは取られのもと」というのがある。自分の石がまだ生きてもいない(きちんとした目がふたつできてもいない)のに、相手の石を取ろう取ろうと思う、そうすると、つい、深追いしたり、守りがうすくなったりして、逆に自分の石が大量に死んでしまう結果になるぞよ、心せよ。という意味である。一理ある。 
 将棋にしても然り。将棋には人知では解決できないほどの深さがあるのだそうだ。しかし、多くは悪手で勝負がつく知能ゲームだといってよい。だから悪手をさえ指さなければ負けない。とはいっても、そう簡単にはいかない。強くなるには、そのための心の修業も大切なようだ。 
 囲碁に定石があるのと同じように、将棋にも定跡というものがある。上達の心得としては、この定跡を学び、調和のよい駒組みを知ることが強くなる秘訣らしい。 
 さらには、手筋を多く知って乱闘を臨機応変に戦う。一つだけでも高級な得意な戦法をもつ。自分より強い人と指して長所を吸収する。手の読み方は、こうやる—こうくる—そこでこう指すと、三手先を考えて着手する、いわゆる「三手の読み」。これが読みの基本であり二手目の相手の最善手を考える。恐れず、あせらず、喜びすぎず、冷静に確かな一手として価値のある手を指す。強くなるには不断の努力が大切だ。スポーツでも、囲碁・将棋でその極意は同じだ。 
 将棋を指すとき「心得ておくとよい基本」を十項目に要約すれば、 
〔1〕攻めは飛・角・銀・桂・歩の協力
〔2〕玉の守りは金・銀三枚 
〔3〕玉と飛車は反対の位置に 
〔4〕歩をたいせつに有効に使え 
〔5〕勝負どころに勝負手を指せ 
〔6〕遊び駒を活用せよ 
〔7〕次の好手をねらえ 
〔8〕捨てる手筋を考えよ 
〔9〕玉は包むように寄せよ 
〔10〕局後に反省せよ (〈山本享介・原田泰夫〉小学館) 
ということになるらしい。これらはいずれも格言的な言い方になっているという。


兼好はいう。

『双六の上手といわれた人に、その必勝法を聞いてみたことがあったんですがね。すると、その人はいうんです。「勝とうと思ってかかってはいけない、負けまいと考えて打つのがいい。どの手がいちばん早く負けるかということを考えて、その手を避け、一手でも長引くはずだと思う手を打ちなさい」とね。さすが、その道に通じ、道をわきまえた人の教えじゃあ、ありませんか。身を修め国を安泰ならしめる道だって、またこの通りでしょうねえ』と。(第百十段) 

 勝とう勝とうと思ってはいけない。「一手でも長く戦える手はどれか」と考えよ、というのだ。すばらしい!まさしく、真髄をついた言葉ではなかろうか。人に聞かれてとっさにこうした真髄が出てくるということ、まさしくこれが「双六の上手」といわれる人だからだと思う。 
 囲碁・将棋に限らず、どんな勝負にもいえることではなかろうか。何事もその道に入ってみると奥の深いもの。野球にして然り、卓球にして然り。「名人・上手」といわれた人の言には、謙虚な気持ちで耳を傾けたいものだ。子育てもまた然り。人生の歩み、然り。昔から「亀の甲より年の功」というではないか。少なくとも、先輩・そしてあなたの両親や義父母には、あなた以上の知恵がある。若い夫婦はそうした人たちのことばに謙虚に耳を傾け、学ぶがよい。

アドバイスの仕方

アドバイスのタイミング/過ちは油断から起こる


夫婦で出かけるとき、奥さんが運転し夫が助手席に座ることがある。そんなとき、よく助手席から「ああだ、こうだ」と注意する人がいる。そして必ず夫婦喧嘩になる。彼にとってみれば、奥さんの運転の粗(アラ)が見えてしまうのだろうが、奥さんだって自分の運転技術をけなされているわけだから次第に頭に来る。「うるさいわねエ」「危ないからいってやってるんだろう」こうして、しまいには楽しかるべきドライブが喧嘩に発展してしまう。    

「うちのテイシュもそうなのよ」という奥様、あなたにいいことをお教えしましょう。

「助言は告白だ」といいます。ですから、そんなときは、あなたの夫はおのれの運転技術の程度をあなたに告白しているのだと思って、笑って「そうね」といいながら聞くか、聞き流すかすればよい。

とはいっても、「そうはいかないわよ」と頭に来ている強気のあなた。

そんなあなたには、こうしたときの喧嘩にならない方法はただ一つ。「夫に小言をいわれても、腹を立てるな」「腹の立ったときに、小言をいうな」。これしかない。

この極意はアメリカへの密航者でもあり、同志社の創設者でもあった、かの有名な新島襄のことばだ。頭を冷やしてこの言葉をかみしめていただきたい。

また、自分は少なからず奥さんよりも運転がうまいと思っているおめでたい旦那に教えたい話もある。それは次の木登り名人の話だ。 

 兼好はいう。

『木登りの名人といわれた男がいてね。人を指図して高い木に登らせて梢を切らせたんだそうだ。高いところに上っていて、ひどく危なく思われているときには何もいわないでいて、下りるとき、その男が軒の高さくらまで下りてきたら「危ないぞ、用心して下りろ」と声をかけたんだそうだ。「このくらいになったら、飛び降りたって下りられるじゃないか、どうしてそんなときになって、注意をするんだい?」と聞いたところ、「それなんだ。目が回りそうなくらい怖かったり、枝が折れそうで危ないと思っているうちは自分自身が気を付けているから、そんなときはなにも言わなくていいんです。過ちっていうのは、ホッとしたところになってから、必ず起こるものなんですなあ」といったというんだね。A 木登りの名人とはいえ、植木屋ですからねえ。しかし、その言葉は聖人の戒めにもかなっていると思いませんか。蹴鞠だっても、むずかしいところをうまく蹴出してのち、やれやれと思うと必ず落としてしまうものだそうだよ』と。(第百九段) 

 あなたの奥さんであろうと、あなた自身であろうと、はたまたタクシーのプロドライバーであろうと、運転している最中は全神経を集中しているもの。横からあまり口を出してもらいたくない。免許取り立ての人に聞くと、高速道路がいちばん怖いという。しかし、わたしにいわせれば、運転に不慣れな人にとっては高速道路ほど運転しやすい道路はないのではなかろうかと思う。高速道路が怖いというのは一〇〇キロというスピードが怖いということなのであって、このスピードはホンの十五分も走ってしまえば慣れてしまう。高速道路は二・三車線あり、しかも一方通行でみんな同じ方向に向かって走っている。狭い一般道のように対向車を意識する必要もない。素人にとって、高速道ほど走りやすいところはない。ただし、素人は追い越しをしようとしたり、スピードの上げ下げを頻繁にしたりしないこと。走行車線を同じスピードできちんと走っていれば、高速道路ほど楽で安全な道路はない、と思うのだが如何なものだろう。

 注意しなければならないのは、兼好法師もいうようにホッとしたところ。たとえば、高速道を下りて目的地の一般道に入るところ。そして一般道に入ってから。なぜならば、体が高速道でのスピードから一般道走行のスピードへ切り替えるのに時間がかかるのだ。神経の麻痺によってスピードの違いが頭の中でも感覚も戻っていないのだ、これが怖い。過ちはホッとしたところになってから起こるもの、よく肝に銘じておきたい言葉だ。

楽しく生きるには…

死を考える/生を楽しみ死を恐れる


 自分の命について考えたことがあるだろうか。

 生とは何か、死とは何か、自分は何故にこの世に生きているのか、生かされているのか。生きている間、生命のあるうちに何をなすべきか……

 考えれば考えるほど、この世に生あることの意味が分からなくなるという人も多いのではなかろうか。これをきっかけに歎異抄でも読んでみるかなどという人も出てくるかもしれない。それはそれで結構なことである。 

 徒然草には、こんな話も載っている。少し長いが読んで見て欲しい。

『ある人がいった。「牛を売りたいという人がいてね、買い手との間で、明日現金払いで買い取る約束ができたんだ。ところがね、その夜のうちに牛が死んでしまったんだよ。こうなると、買おうとしていた人は得をし、売ろうとしていた人は損をしたことになるよな。

 そばで、その話を聞いていた人がいった。

「でもさあ、牛の持ち主は損したことになるけど、また大きな得もしているよ」

「どうして?」

「どうしてかって? だって、生きているもので自分の死の近いのを知らないでいるっていうのは、ありがちなことだよね。この牛がすでに、もう、そうじゃないか。人間だって同じことさ。思いがけずも牛は死に、思いがけずも持ち主は生きていた。人の命は万金にも代えがたいものだ。それに比べれば牛の代金などは鵞鳥の毛よりも軽いことがわかるじゃないか。そうなると、万金にも代えがたい命が助かって、一銭に等しい牛を失ったぐらいで損したなんていえないよ」

 すると、その場に居合わせた人々は「その道理は、なにも牛の持ち主一人に限ったものじゃあないだろう」とあざけった。

「だからさ、人間、死ぬのがイヤなら生命を愛さなければならないわけよ。生きている喜びを毎日楽しまなくてどうするんだい?

 愚かな人はこの楽しみを忘れて、わざわざ骨を折ってほかの楽しみを求め、生きている喜びという、この財宝を忘れているんじゃないかな。この宝物を忘れて、次から次へと別の財をむさぼるならば、とうてい満足なんて得られないよ。生きている間、生を楽しまず、死に臨んで死を恐れるっていうのは、これほど矛盾した理屈はないじゃないか。

 人が生を楽しまないのは、死を恐れないからだよ。イヤ、死を恐れないのではなくて、死の近づきつつあることを忘れているんだよ。もし、生死の世界なんか超越しているというんなら、その人はまことの理(仏法の神髄)を悟り得た人といえるだろうよ」

と言うと、人々はますますあざけったということだ。』と。(第九十三段) 

 若者には自分が一日一日死に近づいているなどという実感はないだろう。それがエネルギーの満ち満ちている時代であり、若いということの証拠なんだと思う。だから、それはそれでよい。しかし、「生を楽しまず、死に臨んで死を恐れるっていうのは、これほど矛盾した理屈はないよね……」この言葉、よくわかることばではないか。

 若いということはいいことだ。勤めていて月給がきちんきちんと入っていたころは時間がなく、リタイアして時間ができたと思ったら、そのころは老後のための蓄えも心細い。これが現実だ。「時は金なり」などというけれど、時と金は反比例している。背中合わせのものらしい。

 西欧人はどれだけ若いうちに引退できるかということを考えて仕事に励むそうだが、日本ではそうはいかない。いくつまで健康で働いていられるかという考え方をする。足が弱ってきてから、若いうちにあちらこちら外国旅行などしておけばよかったと思ってもあとの祭りというものだ。

 友人で、ここにきてから青春を取り戻すかのごとくに、夫婦で頻繁に外国旅行に出かけているのがいる。本人たちは結構楽しそうだから、それはそれでよいのだが、何となく哀れに思えるのは、あながちうらやましさの所為でもない。「生を楽しむ」というのはこういうことではないだろうに……と思うからだ。

 本人たちが、本当に真から旅行が好きな人たちだったのなら、若いときから貯金などして生活費を切りつめるとか、やりくりしながらでも、ちょくちょく実行していたのではなかろうか。退職後、何もすることがなくなってから、暇つぶしに旅行などを思いつくというのは、人が生を楽しむなどというのとは違う。歳取ってから、とってつけたようなやり方はみっともない。その上、あっちへ行った、こっちへ行ったなどと吹聴するのは下下々の下。最低だ。そんなのは自慢にもならないし、かえって鼻持ちならない